鋳銭司略伝

 鋳銭司とは、奈良・平安時代に、国家の銭貨を造っていた役所の名称です。
 わが国では奈良時代に中国の貨幣制度にならってお金を作ることになり、その役所である「鋳銭司」を各地におきました。
 山口県では下関市長府に「長門鋳銭司」が置かれていましたが、天長2年(825年)4月7日の太政官符に、長門の鋳銭司使を停止し、周防の鋳銭司を新設する、と見えます。
 この天長2年から、国家の造幣所鋳銭司は周防の国に移り、以後約150年間にわたり、国家の貨幣を造り続けることになります。
 周防鋳銭司は長い期間には、この地域の各所を、2・3回移転したようですが、わが国で一番長い間、鋳銭司がおかれていたところといわれています。
 ここ周防鋳銭司(四辻)の遺跡からは、鋳銭に使用した道具などが多く出土して、工場跡であったことが確認されました。「周防鋳銭司遺跡」は国指定の史跡となっています。

 日本では、奈良時代から平安時代にかけて、「皇朝十二銭」と呼ばれる十二種類の銭が造られましたが、ここ周防鋳銭司では、富寿神宝から乾元大宝までの8種類の銭が造られたと考えられています。
 昭和41年、46年、47年に発掘調査が実施され数多くの遺物が見つかっています。出土品の一部は、平成14年3月25日に山口市指定文化財となりました。

 皇朝十二銭
  708年(和銅元年)
  
760年(天平宝字4年)
  
765年(天平神護元年)

  
796年(延暦15年)      
  816年(弘仁7年)



  
  835年(承和2年)    
  
848年(嘉祥元年)
  859年(貞観元年)
  870年(貞観12年)
  890年(寛平2年)
  907年(延喜7年)
  958年(天徳2年)
和同開珎(@)
萬年通宝(A)
神功開宝(B)
 794年 平安時代始まる。(〜1185年)
隆平永宝(C)

富寿神宝(D)
 825年(天長2年

   周防鋳銭司設置  以後、約150年間存続
   長門から引き続き富寿神宝などを鋳造
                     (〜834年(承和元年)

承和昌宝(E)
長年大宝(F)
饒益神宝(G)
貞観永宝(H)
寛平大宝(I)
延喜通宝(J)
乾元大宝(K)
      皇朝十二銭   Wikipediaより
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