鋳銭司は、大村益次郎の祖先が代々居住したところで、益次郎は文政8年(1825)5月3日に、孝益の長男として生れ、幼名を宗太郎といいました。
文政10年(1827年)に父の実家である秋穂の藤村の家に移りました。藤村家も医者であったので成人して、医者としての学問を学ぶため、防府の梅田幽斎の塾や豊後の広瀬淡窓の塾に入り、さらに大阪の緒方洪庵の塾にも入って、医学や蘭学を学びました。
このように十年間ばかり一心になって勉強したので、それぞれの塾でもみんなその才能が認められていました。
嘉永4年(1851年)村に帰って医者をはじめましたが、おせじのきらいな益次郎でしたので、患者がさっぱりこず、どうしようもありませんでした。
嘉永6年(1853年)医者をやめ、かねて招かれていた宇和島に行き、医学、軍事に関する講義や翻訳、また軍艦をつくり、砲台の築造などをしました。
また、安政3年(1856年)には江戸に上り、鳩居堂を開いて蘭学、医学、兵学を教え、幕府もまた、その博学ぶりを知り、講武所の師としました。
その内、益次郎のことを知った長州藩も藩士として召しかかえ、藩の蘭学、軍事の教授指導に当たらせました。
幕府の長州征伐に際しては、藩領の四方に迫る幕府軍に対して、身についた洋式兵法をもってこれを破り、倒幕の機を早めました。
益次郎は、明治元年(1868年)、王政復古により成立した新政府の参謀として、方々で起こった幕府残党による戦いを平定するなど、明治政府樹立のために大変な尽力をしています。
維新後は兵部大輔となり、大いに軍制を改革し、日本国民全部で国を守るべきだとして国軍の建設に尽力しました。
しかし、それがために、旧思想の武士たちの反対に合い、京都に出張中の明治2年(1869年)9月に京都の宿でおそわれ、その負傷がもとで11月5日に亡くなりました。
遺骸は瀬戸内海を舟で郷里に運ばれ、長沢池北の丸山に埋葬されました。
いま、東京の靖国神社にある益次郎の銅像は明治26年(1893年)洋風な銅像としては日本で一番最初にできたものです。 |