繁枝神社 (しげしじんじゃ・しげしはちまんぐう 大道)

神社由来
 九州から戦乱をさけて移り住んだ日津喜麻呂豊国宿禰が奉祭していた守護神を、この里の下津五郎万正好という人が土地の鎮守の神として申し請け、白鳳13年(684年)下津令に社を建てたのが始まりといわれています。
 建久2年(1191年)、社殿を下津令から現在のこの繁枝の地へ移しました。
 足利時代、時の藩主大内義興公の崇敬篤く、公直筆の「額」を賜っているそうです。 (境内掲示案内から)

 なお、明治41年に津山神社(長沢 祭神:東條九郎右衛門)がここに合祀されているそうです。(山口県神社庁HP)
大楽源太郎の碑
 大道繁枝神社の境内にあります。
 大楽は幕末維新の頃、大いに活躍した尊皇攘夷派の志士です。大道旦の山県家に出生し、長じて大楽家の養子となりました。山県家、大楽家ともに長州藩士児玉家の家中です。学問では太田稲香、僧月性に就き、さらに日田の広瀬淡窓に学び、上京して頼三樹三郎、梅田雲浜らと、のちには三樹三郎の紹介で、江戸及び水戸に遊び、多くの志士と交わっています。
 一途に尊皇攘夷の事に奔走して、蛤御門の戦いにも参加しました。
 その後郷里大道に西山塾を開いて、子弟を教え、従学するものが多かったそうです。
 門弟の中には寺内正毅(元帥・伯爵・総理大臣)馬原原二郎(大審院判事・貴族院議員)児玉如忠(陸軍中将・師団長)上田実(衆議院議員)などがあります。
 明治2年の山口脱隊の変に、その主動者であるという嫌疑を受け、豊後姫島に逃れました。 ついで久留米藩に頼りましたが、明治4年3月16日、筑後川畔で久留米藩人に殺されました。38歳でした。
 墓は久留米の遍照院にあり、また、大道芝山に妻と一緒の墓があります。
 
神社内の大楽源太郎碑の前で クリックすると画像が大きくなります。
寺内正毅が建てたといわれる
神社内の大楽源太郎碑
大楽源太郎碑の裏側

鐘の銘文:
「昭和48年5月 式年大祭記念
          奉献 氏子篤志者

鋳匠 京都 岩澤徹誠

碑文:「瑞気満松」

「繁枝神社」の額は公爵毛利元昭書

繁枝神社拝殿と本殿(鞘殿)

大繁枝疫神森
繁枝神社由来碑
聖繁荘(元保育園) 碑文「聖繁荘遊園碑」
碑文:「昭和29年開園 平成8年閉園 卒園児700名 平成8年7月建立」 「大楽源太郎」 内田 伸著
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