東条九郎右衛門は藩士東条三郎兵衛の養子で、寛永19年(1642年)9月に藩主毛利秀就から一字を賜り、就類(なりよし)と名乗りました。
寛永19年に小郡代官に任ぜられ、その後18年間その職にあって仕事に励みました。この間大いに民政に配慮し、特に耕地の開発拡充に意を注ぎました。
その主なものは、椹野川の下流両流域に作られた小郡の慶安開作、陶の慶安開作の二つの大きな開作と、大井手、用水池、溝渠など、小郡代官支配地の全村に及んでいます。
用水池では、長沢池は、当時、防長において第一の大池で、その工事は今までに例のない大工事でした。
用水池の築立ては、この鋳銭司村内に八か所あつたといいます。長沢池の外、和西の焼畑堤、鷹の子の大津堤、畦倉堤、小森の八伏堤、岡の舟木堤などの大きな用水池が、この頃九郎右衛門の設計監督で造られました。
また、長沢池の工事にともなう用水溝の工事や、椹野川の下流に設けられた林光井手は、東西の慶安開作の用水用として造られたものですが、川を堰く工事は、川土手が切れて大洪水になると考えられ、難工事であったといわれています。
藩はこの功を賞して、寛文3年(1663年)に、今までの禄40石に加えて110石を与えました。
同10年11月3日、萩で没し、徳隣寺に葬られました。
鋳銭司の人々もその死を悲しみ、供養をしたようです。それは顕孝院や両足寺などの寺に立派な位牌があることによってわかります。
また和西の焼畑堤の土手に「全躰空照居士」と九郎右衛門の法名を彫った供養碑が建っています。これは焼畑堤を九郎右衛門が築造したということを忘れないようにと、死後125年目に建立したものです。 なお大道の津山には、明治13年に、九郎右衛門の霊を祀る、津山神社が創建されています。
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