松永周甫(まつながしゅうすけ)



 松永周甫は幕末から明治にかけて、この地に住んだ医者です。
 文化13年(1816年)に萩に生れました。
 長崎で医学を学び、また、薬草の研究もしています。
 天保11年(1840年)に名田島に住み医業を開きました。
 その医業の傍ら、本草学にも造詣が深く、たびたび諸国に遊学し、各地で薬草や珍樹を採取して、嘉永5年(1852年)、この南原に移住してこの地を開き、多年、薬草園を経営しました。
 当時の記録を見ると586種類の植物が植えられていました。
 慶応2年(1866年)一代藩医となり、本草生育方頭取に命じられました。
 また、シーボルトとも交友がありました。
 更に、周甫はこの南原に移住してからは、薬草園の経営だけでなく、周囲の山林の砂防工事、荒地開発などにより土地改良、農事改善にも貢献しましたが、それは大変な苦労だったそうです。
  明治天皇が山口に行幸のとき、産業功労者として報償されました。
 この碑の近くに墓もあります。
 明治19年(1886年)6月28日、71才で亡くなりました。


この頃の出来事

  1800年 伊能忠敬 蝦夷を測量 
  1854年 3月31日(嘉永 7年 3月 3日)  日米和親条約
       4月24日(嘉永 7年 3月27日)  吉田松陰が下田で黒船へ密航しようとしたが
                           失敗、翌日幕吏に捕らえられる。
  1868年 明治と改元
  1885年 12月伊藤博文が初代総理大臣に就任

松永周甫顕彰碑 砂防記念碑
顕彰碑敷地周辺 松永周甫肖像画(小学校読本「鋳銭司」より)
松永祥甫顕彰歌碑

碑文:「祥甫碑平成8年4月吉日建之
松永祥甫先生
顕彰歌碑建立委員会」
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